だけどもう嘆くまい。
ヒカル∞トシという不思議な曲がある。
2017年11月に上げたこの曲を書いたきっかけは、とある雑誌に載っていたインタビューを読んだ後に、己の不甲斐なさを嘆いたことであり、その嘆きを放った瞬間に出て来た「遠くて 遠くて」というフレーズにそのままメロディーを載せて、さらに筆(と言いつつも実は指であった)をそのまま動かし、ある程度の時間を費やして楽曲として成立させた。
距離を嘆き、カガヤキの形を嘆き、ミライを嘆き、己を嘆き、等身大を嘆き、ヒカリを嘆き、宇宙を嘆くーー楽曲を構成する感情はハッキリと覚えているものの、どうやって今の歌詞に出来上がったのか、その工程ごとを忘却している。
なんなら編曲のこだわりも、モチーフのこだわりも、タイトルのこだわりも全部覚えているし、今すぐ歌詞全編を解説しろと要求されても躊躇うことなくそのまま応えることもできる。出来上がった当時の解釈と違わない結果を出すこともできるのだろう。
しかし、歌詞を織りなした時の工程だけはまるごと忘却している。例えば「何故そのワードチョイスができたのか」とか、「1番はずっと光年のような距離を嘆いているのに、何故2番Aメロでから1番への解答をそのように用意できたのか」とか、「その解答を用意するのに何故螺旋の星々-他人-を巻き込んだのか」とか。
自分の作詞の癖はそれなりに把握している。楽曲テーマがどれほどマイナスなことを語ろうとしていても、せめて2番以降は光の兆しを用意し、希望を見せなくてはというこだわりがある。が、この楽曲の2番サビだけは本当にちょっとわからない。
限りない 世界の中で ヒカル 出逢う 混じり合う
螺旋描く星々は また離れてく
広過ぎた宇宙のおかげだ きっと
31536000ノ1を重ねて
ヒカル僕らになれたよ きっと
見えなくても 見上げる空は
今日もキラリとキラリと 賑やかだね
そりゃ書いたきっかけや時期を考えると、自分を深く影響している作品の面影があるのはおかしくないけど、やはりなぜここで自分と「君」以外の「第三者たち」を巻き込んだのか、その原因をどうしても思い出せないし、今ここで「こう思ったからそう書いたのだろう」と答えを導き出しても、なんとそれは「真実」ではなく「解釈」になってしまう。わっかんねぇーなぁ...
それはそれとして。
嘆きの歌、光年∞都市。この曲に関して、我ながらなかなかの名曲だと思い、そしてそれをたった一人の観客がいるコンサートホールのステージの上に弾き語りできたことがなかなか不思議かつ心地よい体験があるからこそ、その時の録音を聴くたびに心が一気にその夜の宇宙に飲み込まれてしまう。
なんならちゃんとした編曲バージョンよりも、弾き語りの方が遥かに好き。当時の心境があったからこそ、嘆きよりも悲鳴の曲になってしまったのは些かどうしたものかとも思うわけだが。
2017年で嘆いた。2018年で喚いた。2019年で遊んでいた。
そして、2020年。「不思議と思った」。
こうして楽曲製作当時のことを覚えていても歌詞製作工程のことが全然思い出せないということは、おそらく「嘆く」という行動を前よりしなくなっていると思う。
実際、最近はあまりそういうことについて考えなくなっている気がする。
物理的距離は変わっていないし、時間の距離も最初から定められている。心の距離はと言えば、まぁ、測定のための資料が不足している。
しかし、2017年から2020年までのこの3年間、おそらく大事なことに気付かされたと思う。
「そんな暇はない」と。
驚かされるのもどうかと思うけど、この数年でびっくりするほど能動的になって、いろんな人と交流し、そこから得たものが全部宝物だ。
もう、あの日のただ宇宙を見上げるだけの自分じゃなくなって、気付けばココロに熱いものがいつもこみ上げている。
そして、
「少し不思議かもしれないけど、それでも触れてみてもいいよ」と囁く人がいた。
「正解がわからなくていいんだ」と囁く人がいた。
うん、嘆く暇なんてないよね。
近いのに 遠くて
たったの3,430万秒の距離なのに
遠くて 遠くて...だけど もう
「だけど もう」という歌詞の後に続きの言葉はなかった。確か当時は心境の変化を描くためにこの言葉にしたらしく、メロディーの方も割と高い音程に合って、転調をも仕込んだ。まるで遠吠えをするかのように。
だけど、「もう嘆くまい」。少なくとも、今は「そんな必要はない」と感じている。
響き渡る言葉を、ココロに刻んでおいたよ。
指差してくれたあの瞬間、ココロに刻んでおいたよ。
もう嘆くまい。
【FINE】