青に溺れ。ーーブルーアワー
このまま遠くへ
どこか知らないところまで
今日が明日に変わる境界線を消しさって
自由にゆらゆらとはためく鳥のように
この手は何だって掴めると信じよう
もう一度
迷子になって、青に溺れてみたい。
これは昔の私がよくしていたことだけど、視線を青空に存在もしない一点に集中して、その青を見上げることが好きだった。
見つめていたら、地元の高い空にだっていつの間にか吸い込まれていきそうな感覚になる。
元から青色が大好きで、自然界の生物にほぼないこの色は、光の反射や諸々のことで空と海で主役を演じているから、私はそんな空と海を見ることが好きで、また海の波の音も好きだ。
しかし、今までなぜ青が好きなのかということをよく考えていなかった気がして、そのことに気付かせてくれたのが逢田梨香子さんのこの「ブルーアワー」という楽曲だ。
それを共感覚とみんなは呼んでいて、私にとって楽曲の調性にはちゃんと「色」が存在しているが、イメージとしては一番青いのはD MajorとB Majorだから、青を名前に持つこの楽曲にこの二つの調性が同時に現れたと知った瞬間、もう私はこの楽曲から離れないと定められたし、逢田梨香子さんが書かれた歌詞こそが、トドメを刺してくれたものだと知った。
ブルーアワーに潜んだ孤独は、イントロと歌詞から同時に伝わってきてしまって。
日の出前の青空の美しさと切なさは、歌声と共に心に響いてしまって。
そしたら、
このまま遠くへ
どこか知らないところまで
今日が明日に変わる境界線を消しさって
自由にゆらゆらとはためく鳥のように
この手は何だって掴めると信じよう
もう一度
連れて行って欲しい所がそこに書かれていた。
インターンシップで日本に働いていた頃に、一回職場の後輩と一緒に夜の漁港の防波堤に訪れたことがあって、その時の群青色の海や波音は今でもはっきりと覚えている。
ストレスと寂しさを和らげるように、群青色の海をただただ見つめて、群青色の空をただただ見上げていたが、別にそれで寂しさが消えたわけでもなく、しかし不思議と心が落ち着いた。
その情景を、この楽曲が思い出させてくれた。
群青。孤独。青。空。
欲しかったのに最後まで手に入れなかったものが、誰かにとっては当たり前のものだった。
誰にも言えなかった。と、いつの日に自分を困らせていた心境を。
だから、私にとって、ブルーアワーという楽曲は語るための楽曲ではなく、ただただ感じる楽曲だと思う。
何かを語りたくても言葉が出なくて、逆に思い出すものと、感じてしまう感情がたくさん湧いてきてしまう。
再生の花の生き様を語ってもらったあの時とは違って、今度はただただ景色を見せてもらっていた。
私の大好きな青色に満ちた景色。
溺れないわけがない。空と海と孤独が見えてしまったから、
溺れないわけがない。
青色が大好きなのは、青色が空の色であって、海の色でもあって、どちらもどこまでも広く深く、どこまでも溺れやすい色だからだ。
そんな青色に満ちたブルーアワーに、私はただただ溺れたい。
溺れて、どこか知らないところまで自由に、ゆらゆらとはためく鳥のように。
自由の翼で、夜明けを、明日を迎えたい。
ーー嗚呼、どこまでも青色が似合う人よ。
あなたが見せる景色が青いのは、ある意味必然かもしれない。
広く、広く。深く、深く。
青が見えて、青が聞こえて、青を思い出して。
青に惹かれ、青に溺れ、青に生かされて。
私にとって、これはただの必然だよ。
【FINE】